聡と華恩。二つの圧力に萎えそうになる心を、優しい声が甘く包む。
『誰にもあなたを傷つけさせたりはしない。私はいつでも味方です。だから、大丈夫』
そうだ、大丈夫だ。
『あなたは強い人だ』
そうだ、私は強い。
『知っていますか? あなたのその、負けたくないという強さが、私には何より美しいと思えるのです』
そうだ、私は負けない。私を嘲り、脅し、虚仮に扱う義兄という存在。あんな人間になんて負けるワケにはいかない。
だって廿楽先輩に見放されたら、私は唐渓では生きていけない。
『あなたは、あなたが正しいと思うことを貫けばいい』
そうだ、私は正しい。だから絶対に撤回など、できるワケはないのだ。
白々と夜が明ける。少し霞んだ、靄のかかったような辺りを見渡し、瑠駆真はカーテンを握り締めた。
ガラスに映る自分の瞳。毛嫌う人間を彷彿とさせる、決して自慢とも思えない甘い瞳。
視界の端で明滅するのは、メールの着信を知らせる携帯。自分の姿と一緒になって窓ガラスに映る室内。そのテーブルの上で、瑠駆真の気を引こうとしつこく知らせる。
相手はわかっている。その内容も。
秋にもう一度来ると言っていた。自分の父親に寄り添う黒人の女性。
どうしてこうも、僕の周りには苦手な人間ばかりが集まるんだ?
ぐっと瞳を細めると、薄っすらと小童谷陽翔の顔が重なる。
「お前の恋路なんか滅茶苦茶にしてやる」
父であるミシュアルといい小童谷といい、瑠駆真にとっては口うるさいだけだった母に二人もの異性が想いを寄せているという事実には、驚きさえする。
僕は、物好きとは反りが合わないらしい。
毒づく脳裏に、下卑た声。
「お前に味方する策はない」
「ふざけるなっ」
吐き出すように、掠れた声をガラスに叩きつける。
僕には何も策はないだと?
廿楽華恩の誘いを受けようが断ろうが、美鶴は自分から離れていく。
小童谷はそう言った。
そうはさせない。
ぐっと下唇を噛む。滲む血の味。微かに眉を潜めながら、靄間の朝焼けを睨みつけた。
自分は無力だ。
今まで何度も、自分に言い聞かせた。
聡と対峙している時も、ミシュアルと向き合っている時も、いつでも瑠駆真は己の非力と無力を感じる。自分の手には、力はおろか何一つ自慢できるものはない。何もないが、何か欲しいと具体的に思えるものもない。今まで一つもなかった。ただ無力である事を呪うばかりで、欲しがる事などしなかった。
そんな自分が、今は唯一欲しいと思えるもの。
美鶴。
彼女だけは、どうしても手放してはならない。彼女のためなら、何でもしてやる。そうだ、もともと自分は何も持ち合わせてはいないのだ。失うモノだって、何もない。
聡にも小童谷にも、負けるワケにはいかない。
自分の知らない夏を知る聡。
そう言えば、聡は夏休みに美鶴と喧嘩したと言っていた。美鶴が澤村優輝に捕まっていた頃、瑠駆真は駅舎で聡から聞いた。
英語の成績が気になって学校に忍び込んだ美鶴。その姿を見かけた聡。尾を引いて夏休み明けに気まずい雰囲気だったのが周囲に知れて、ちょっとした噂になった。その関係も、いつの間にか修復されてしまったようだが。
今日、美鶴の部屋で聞いた話の中に、その件は出てこなかった。夏休みに学校で喧嘩した件と、京都の件は無関係だという事か。もしくは、美鶴を目の前にして言う事ができなかったのか―――
聡の話を他人事のように聞いていた美鶴。霞流と歩く姿を目撃されたというのに、まるで自分には関係ないという表情で聞いていた。
だが美鶴は、なぜ霞流と京都の街を歩いていたのか、瑠駆真や聡に話す事を拒んでいる。昼間、聡の話を黙って聞きながら、胸中は穏やかではなかったのかもしれない。
本当は、もう一度問いただしてみようとタイミングを見計らっていたのだが、父親や母親の存在などという方向に話が向いてしまった為、聞く事ができなかった。
自宅謹慎を受けているワケだし、父親がいるだけマシだなどと口にする美鶴を厳しく咎めるのも気が引けた。
美鶴と聡の夏。
美鶴と霞流の夏。
どちらと比べても、置いてけぼりをくらった夏。
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